LOGIN第3話 売られたフィリス
馬車に乗って連れてこられたのは、大衆居酒屋のような店が連なる通りだった。店自体は、どれも明るいのだが、街灯がない通りのせいかどこか陰鬱な雰囲気だった。
父と継母は、馬車から降りなかった。
マリエッタが先に馬車を降り、フィリスの手を優しくとって、馬車を下ろしてくれた。
「この大きな店が新しい職場よ。どう? にぎやかで良さそうでしょ? 住み込みの仕事なのよ」
マリエッタが指さしたのは、馬車を降りてすぐの大きな店だった。
一階がレストランになっているようで、たくさんの女たちが客に給仕しているのが窓から見えた。
新しい職場は、飲食店なんだ!
年の近そうな女の子がたくさんいる明るい店内で、フィリスは、ほっと息を吐いた。住み込みだと言うし、ここで仕事をしていたら、もう実家には帰らないかもしれない。
フィリスは、馬車に乗ったままの父と継母に頭を下げた。
「今までお世話になりました」
父も継母も、また三日月のような目で笑って、手を振った。
「新しい職場でも頑張りなさい」
父の言葉が胸に刺さった。ずっと頑張ってきたことを父が気がついていてくれたんだと思えたから。
「さぁ、行きましょう」
マリエッタに手を引かれ、フィリスは店の裏手へと連れていかれた。
明かりがない暗い路地。裏口なのであろう扉をマリエッタがノックすると中から初老の男が一人出てきた。
「店長、約束通り連れてきたわよ」
マリエッタの言葉に、店長と呼ばれた男はフィリスの顔をじろじろと舐めまわすように見てからニヤリと笑った。何本か抜けてなくなった歯が見えて、フィリスは背中がぞくりとした。
「随分と上物じゃないか。いいだろう。これで、ヴァイセンさんとこの借金は、チャラにしておいてやる」
「……借金?」
フィリスがどういうことか聞こうとマリエッタを見たが、フィリスの腕を店長がぐいと引っ張って、そのまま店の中へと連れ込まれた。
扉が閉まる一瞬、マリエッタの恍惚とした笑みが見えた。
店長は、フィリスの腕を引っ張ったまま暗い廊下を進んだ。
「おい、娘。名前はなんという」
「……フィリスです」
前を歩く店長は、ふっと笑った。
「経験は?」
「……なんの経験ですか?」
ここで初めて店長は足を止めた。
「まさかお前、生娘か。これはいい買い物だったな」
「え……」
店長の言葉に、フィリスは全身から血の気が引くのを感じた。
フィリスは来た道を戻ろうと腕と足に力を入れたが、店長はすぐにフィリスを捕まえる手に力を入れて逃がしてはくれなかった。
「残念だったな。騙されて売られてきたんだろうが、そんなことは俺には関係ない。大丈夫、お前ほどの器量だったら、客も可愛がってくれるはずだ」
――騙された。
その事実に、フィリスはめまいがした。
初めて褒めてもらえたと思ったのに……認められたと思ったのに……
フィリスは、悔しさとやるせなさで涙が出た。今まで、どんな意地悪をされようと泣かずに我慢してきたけど、これだけは耐えられなかった。
「ほら、今日からここがお前の部屋だ」
店長がフィリスを案内したのは、高窓から月が見える部屋だった。
部屋の中央には、テーブルと寝台――ただ、それだけの部屋だった。
寝台の上には、何かを縛るのであろう長い紐が乗っていた。
フィリスはすぐに後ろで閉まった扉のドアノブを回したが、外から鍵がかかっているようでドアノブは回らない。壁の上の方にある窓にも駆け寄ったが、フィリスの身長では手が届かなかった。どうにかして逃げ出せないかと右往左往しているうちに、後ろでガチャリと部屋の戸が開いた。
「おお! 店長の言った通り、こりゃあ随分と可愛いお嬢さんだ」
入ってきたのは、長身のガタイのいい男だった。
黒いハイネックのセーターには、王国兵士であることを示す鷹の紋章のワッペンが縫い付けられていた。
兵士は、テーブルに金貨を五枚置くとこちらへ近づいてきた。
「来ないで!」
フィリスの言葉に兵士は楽しそうに笑った。
「店長に聞いたぞ。売られてきたんだってな。大丈夫だ、慰めてやる」
一歩、また一歩と兵士が近づき、フィリスは窓の下の壁際まで追いやられた。
兵士のごつごつとした大きな手がフィリスの顔に伸びた、その時――
フィリスは、咄嗟に目を閉じて両手を組み合わせた。
助けて!
「ぐわ! なんだこれ!」
兵士の悲鳴にも似た声に目を開けると、さっきまで寝台にあった筈の紐が男の手足を縛り上げていた。
迷っている暇はなかった。
フィリスは、兵士が金貨を置いたテーブルを急いで窓の下まで運んだ。
テーブルの上に乗ると、なんとか窓に手が届いて窓を開けることができた。
外の清々しい空気がフィリスの頬を撫で、丸くて白い月が街の向こうに見える森を照らしていた。
「待て!」
兵士が這うようにこちらに近づき、テーブルの足を蹴った。
ぐらりとテーブルが揺れて倒れる間際、フィリスは窓枠に飛びつき、足をばたつかせて、なんとか外へ脱出した。
高窓から落ちるように地面に体を叩きつけられ、フィリスは、ゲホゲホと咳き込んだ。幸いなことに、一階だったせいか体を強く打っただけで骨は折れていなさそうだ。
走れる――そう思った時、後ろから声がした。
「女が逃げ出した! 高い前金を払ったんだ、捕まえてくれ!」
さっきの兵士の声だ。フィリスは、地面を蹴って走り出していた。
月の照らす先、少しでも明るい場所を目指して、走った。
「逃げるな!」
「さっさと帰ってこい!」
後ろから、フィリスを買った店長と兵士の声がまだ聞こえる。追いかけてきているみたいだ。
フィリスは、恐怖で勝手に目から涙が流れた。
王都の西門から飛び出すと街道が続いていた。街道の両脇には平原が続き、平原の右側に高い木が生い茂る森が見えた。
走っていても、いつか追いつかれる。隠れるしかない。
フィリスは、森に向かって、また走り出した。
「見つけた! あそこだ!」
声がさっきより近い。
なんとか森に駆け込んで、木に隠れるようにジグザグに走った。
隠れるために入った森だったが、月の明かりがフィリスを照らし、やつらは執拗に追いかけてきた。
少しずつ距離が縮まり、フィリスが木の根に足を取られて転んだところでついに追いつかれてしまった。
「やっと捕まえたぞ!」
「止めて! 放して!」
フィリスの長い髪が後ろから引っ張られた。振り返るとそこには、兵士がフィリスの髪を掴んで顔を引くつかせていた。その後ろには、肩で息をする店長の姿もあった。
「店長、もうここでしていいか」
「どうぞお好きに。お灸を据えてやってください」
フィリスの体は、ガクガクと震えた。
ドンと強く地面に押し倒されて、兵士がフィリスに跨った。
あぁ……もう逃げられない。
フィリスの頬に涙が伝った――その時。
店長の後ろの木の陰から大きな何かが飛び出した。
第7話 初めての贈り物「どうかしたか?」「あの……その……」 窓から夕日が射しこむ家の中。フィリスは、恐る恐るシリルに近づくが心臓がバクバクして、次の言葉がなかなか口から出てこなかった。 フィリスが言い淀んでいるうちに、先に口を開いたのは、シリルだった。「着替えたんだな。よく似合ってる」「ひゃ」 ご主人様が笑いかけてくださってる! 社交辞令だということは、もちろん分かっているが、この美しい顔の人が自分の作ったものを褒めてくれていると思うと、とてもじゃないが冷静ではいられなかった。嬉しいものは嬉しいのだ。 工房に閉じ込められて、ドア越しに聞いていた褒め言葉でされ、生きる喜びになっていたのだ。目の前で聞くのは、その比じゃない。 フィリスは、シリルに褒めてもらった言葉が嬉しくて、何度も頭の中で反芻した。「自分で作ったのか?」「はい……ルミの毛で作りました。その……私」「もしかして、祝福持ちなのか?」 口ごもっていたら、先にシリルが聞いてくれた。 フィリスは、遠慮がちに目線を下げて頷いた。自分の力のことを誰かに話したのは、これが初めてのことだった。「なるほど。それで、ルミはフィリスを助けたんだな」 フィリスは、どういうことか分からずに首を傾げた。「ルミは、ブレスラビットって種類の魔獣なんだ。ブレスラビットは、祝福持ちに惹きつけられる特性があるんだ」「へぇ」 だからルミは、神織りを見たがるのかな? よく分からないが、たぶんそういうことなんだろう。「あ、忘れるところでした! これ」 フィリスは、やっと本題を切り出した。手に持っていた黒のケープと新しく作った服をシリルの前に腕をぴんと伸ばして差し出した。「その……助けていただいたお礼に、ご主人様の服も作りました。お納めください!」 最後の方は、恥ずかしくて、シリルの顔を見ることができなかった。 シリルは、服を受け取ると貸していた方のケープをソファーの上に置いて、新しい服の方を広げて目を見開いた。「すごい、縫い目が一つもないんだな」「はい……神織りっていう祝福なんです」 神織りで作った服は、普通の服のように縫製をしていないから縫い目がない。なので、衣類にすると普通の既製品より着心地がいいのだ。「着てみてもいいか?」「はい、どうぞ」とフィリスが答えるか、答え終わらないうち
第6話 ウサギと織物「ご馳走様でした」 食事の間、シリルがフィリスのことについて、名前以外で何かを聞くことはなかった。 どこの生まれだとか、どうして森で追いかけられていたのだとか、どうして借金のカタに売られたのだとか。 フィリスとしても、もはや思い出したくもないことだったので、聞かないでくれたのは、ありがたかった。 フィリスは、食べ終わった食器をシリルの分も重ねて集めた。作ってもらったのだから、片付けくらいはしたい。 フィリスが食器を持って家の玄関へ向かうと手が塞がったフィリスの代わりに、シリルが扉を開けてくれた。やっぱりこの方は、お優しい。 フィリスがお礼を言うと、「これくらい普通だ」と言って、シリルはそっぽを向いてしまった。「わぁ、素敵な家ですね」 フィリスは、家に入ってすぐにその内装を見て顔がほころんだ。 明るい木材を張った床と壁。床には温かみのある赤に白のウサギが描かれたカーペットが敷かれていて、思わず笑ってしまった。部屋の奥には石造りの暖炉とキッチンがあり、二階に続く階段もあった。「ご主人様は、ウサギがお好きなんですか?」 シリルに聞いてみたが、聞こえないふりをされてしまった。たぶん好きなんだ。 キッチンのシンクに食器を置き、蛇口を捻る。 シンクに置いてあった固形石鹸で食器を洗った。 洗い終わったものは、何も言わずにシリルが受け取り、布巾で拭いて、食器棚へしまってくれた。 二人分の食器は、あっという間に洗い終わってしまった。何とかして、シリルに褒めてもらいたいフィリスには、少し物足りない時間だった。「あの、ご主人様」「なんだ」「他にお手伝いできることは、ありませんか?」 とその時――ガリガリと家の扉を引っ掻く音がした。 シリルが開けるとルミが飛び込むように部屋に入ってきた。そしてすぐにフィリスのスカートを咥えて引っ張った。「いってやってくれ。俺も他にやることがあるから」 シリルはそう答えると階段を上って、姿が見えなくなってしまった。 フィリスは、短いため息を吐いてから、「行きましょうか」とルミの大きな白い頭を撫でた。* * * ルミがフィリスを引っ張ってきたのは、昨日と同じ厩舎だった。ルミは、作業台の上に乗った自分の毛の塊の前でドスンと飛び跳ねた。「さっさと何か作れってこと?」 どうやら正解のようで
第5話 新しい雇い主 フィリスは、ウサギから外した鞍を壁のフックにかけて、隣に吊るしてあった銀の櫛を手に取った。 櫛を持ったら、すぐにウサギが自分で近づいて来たので、梳かされることは嫌じゃないのだろう。 フィリスは、そっとウサギの背中に櫛を入れた。柔らかい毛の感触が櫛を通して伝わってくる。ウサギもうっとりと目を閉じて、気持ちよさそうだ。「ねぇ、ウサギさん。私もあなたのこと、ルミって呼んでいいかしら?」 確かあの人は、この子のことをそう呼んでいた。 フィリスの言葉にルミは、うんうんと頷く。人の言葉が分かっているみたい。 フィリスは、丁寧にルミの全身に櫛を通した。梳かしてみて気がついたのだが、ルミの毛は、部位によって毛の質が違うようだ。 背中は、絹のように艶のある長い毛。 腹は、ふわりと暖かく羊毛のよう。 首の下から胸にかけては、きめが細かく綿に近い。 耳や顔周りの毛は、さらりとした肌触りだ。 これなら毛の種類で、違う種類の糸や生地が作れそうだ。 フィリスは、だんだん楽しくなってきて、ハーフアップにしていた自分の髪をひとまとめに結い直した。 ルミは、毛を梳かされるうちに眠くなったのか、厩舎の地面の上に頭をもたげて寝てしまった。 フィリスは、ルミが寝てからも手が止まらず、毛を梳かし続けた。 梳かして取れた毛を部位ごとにひとまとめにして作業台に乗せていく。どんどん毛の塊は大きくなり、作業台には乗り切らなくなってきたので、一番たくさん獲れた腹の毛は、奥のルミの寝台に乗せた。「ふふ、これだけで立派なクッションみたいね」 寝台の上に乗った毛は、大きなクッションほどの大きさになり、まるで空に浮かぶ雲のようだ。それを見ているとなんだか乗ってみたくなってきた。 フィリスは、履いていた靴を脱ぎ、寝台の毛に身を預けた。 柔らかい! それにすごく暖かい! 毛の上に体を預けて横になった。ふわふわの毛に包まれたみたいで、それだけで体の力が抜けた。 目の前には、すやすやと寝息を立てる大きなルミ。その奥、厩舎の外には、月や星の光を反射させて優しく光る湖。 はぁ、すごく素敵な場所。 フィリスは、真っ白な毛に包まれながら自分の幸運を神に感謝した。 少しだけ、休んでもいいよね。 暖かな毛に包まれていると、自然と瞼が重くなった。* * *「おい
第4話 ウサギと死神 フィリスの頬に涙が伝った――その時。 店長の後ろの木の陰から大きな何かが飛び出した。 月明りに照らされて白く光る巨体は、木々の間を抜け、一気にこちらへ走ってきた。「お、おい、どうした、ルミ!」 一緒に男の戸惑う声が聞こえた気がした。「うわ!」「ぐお!」 白い塊は、店長を弾き飛ばし、フィリスに跨っていた兵士も前足で弾くようにして押しのけた。店長と兵士は、たまらず悲鳴をあげた。 フィリスは、涙で歪んだ視界をこすって、起き上がった。そして、目の前にいた生き物を見て、大きく目を見開いた。「……うさぎ?」 長い耳に丸くて短い尻尾。 まるでフィリスを守るように、店長と兵士の間にいたのは真っ白なウサギだった。だけど、ただのウサギではない。体がクマのように大きいのだ。 しかも、大きなウサギの背中には鞍が固定され、その上には黒髪の男が跨っていた。「おい、お前、何者だ!?」 飛ばされた兵士が怒鳴ったが、店長が兵士の肩を叩いて首を振った。「旦那、あの黒髪の男、ありゃ最近この森に住み着いたって噂の黒衣の死神だ」「あれが……黒衣の死神……?」 兵士がごくりと唾を飲みこんだ。そして腰に手をやるが剣を持ってきていなかったことに気がついたのか、店長と一緒に一歩後ろへ下がった。 黒衣の死神の話は、フィリスにとって初めて聞く名前だったが、逃げられるなら何でも良かった。「おい、死神。その女は、俺が今晩買った女だ。こちらへ渡してくれないか」 兵士がまだあきらめきれないらしい。だけど大きな白兎がフィリスにぴったりと体を寄せて、フィリスを隠した。上に乗っている男は、ため息を吐いて頭を掻いた。「いくらだ」「あん?」「いくら払ったのか聞いている」「俺は、前金で金貨五枚だ」 ウサギに跨った男は、舌打ちをしてから上着のポケットから革袋を出して、兵士に放った。「金貨八枚入っているはずだ。それでいいだろ」 兵士は受け取った袋の中身を数えて、それでも口惜しそうにフィリスを見た。 フィリスが恐怖で震えるとウサギがふわふわの鼻先でフィリスの頬を撫でた。「死神の旦那、うちの店は、借金のカタとして、その娘を買ったんだ。返してもらわないと困る。こっちは金貨百枚だ。それも旦那が払ってくれるのか?」「さすがに百枚は……今は持ち合わせていないな」 黒髪
第3話 売られたフィリス 馬車に乗って連れてこられたのは、大衆居酒屋のような店が連なる通りだった。店自体は、どれも明るいのだが、街灯がない通りのせいかどこか陰鬱な雰囲気だった。 父と継母は、馬車から降りなかった。 マリエッタが先に馬車を降り、フィリスの手を優しくとって、馬車を下ろしてくれた。「この大きな店が新しい職場よ。どう? にぎやかで良さそうでしょ? 住み込みの仕事なのよ」 マリエッタが指さしたのは、馬車を降りてすぐの大きな店だった。 一階がレストランになっているようで、たくさんの女たちが客に給仕しているのが窓から見えた。 新しい職場は、飲食店なんだ! 年の近そうな女の子がたくさんいる明るい店内で、フィリスは、ほっと息を吐いた。住み込みだと言うし、ここで仕事をしていたら、もう実家には帰らないかもしれない。 フィリスは、馬車に乗ったままの父と継母に頭を下げた。「今までお世話になりました」 父も継母も、また三日月のような目で笑って、手を振った。「新しい職場でも頑張りなさい」 父の言葉が胸に刺さった。ずっと頑張ってきたことを父が気がついていてくれたんだと思えたから。「さぁ、行きましょう」 マリエッタに手を引かれ、フィリスは店の裏手へと連れていかれた。 明かりがない暗い路地。裏口なのであろう扉をマリエッタがノックすると中から初老の男が一人出てきた。「店長、約束通り連れてきたわよ」 マリエッタの言葉に、店長と呼ばれた男はフィリスの顔をじろじろと舐めまわすように見てからニヤリと笑った。何本か抜けてなくなった歯が見えて、フィリスは背中がぞくりとした。「随分と上物じゃないか。いいだろう。これで、ヴァイセンさんとこの借金は、チャラにしておいてやる」「……借金?」 フィリスがどういうことか聞こうとマリエッタを見たが、フィリスの腕を店長がぐいと引っ張って、そのまま店の中へと連れ込まれた。 扉が閉まる一瞬、マリエッタの恍惚とした笑みが見えた。 店長は、フィリスの腕を引っ張ったまま暗い廊下を進んだ。「おい、娘。名前はなんという」「……フィリスです」 前を歩く店長は、ふっと笑った。「経験は?」「……なんの経験ですか?」 ここで初めて店長は足を止めた。「まさかお前、生娘か。これはいい買い物だったな」「え……」 店長の言葉に、フ
第2話 忘れられない日 迎えたお見合い当日。 夜のヴァイセン織物工房から一番に工房から出てきたのは、黒のタキシードにシルクハットの父だった。工房の前に止まった馬車に乗り込むとすぐに鼻の下の髭を丁寧に整えた。 父に続いて馬車に乗ったのが継母とマリエッタ。二人とも新しいドレスを着て、顔は期待で輝いていた。 最後がフィリスだ。マリエッタに貸してもらったくすんだローズピンクのドレスは、胸元が大きく開いていた。肩ひもも細いリボンだけで、なんだか心もとない。 馬車に乗り込み、マリエッタの隣に座ったフィリスは、長い髪を前に垂らして、なんとか胸を隠した。 馬車がゆっくり走り出すとすぐに、継母がいつになく優しい笑顔をフィリスに向けた。「フィリス。実は、今日はあなたにお願いがあるの」「……はい」 どんな態度であれ、継母に声をかけられると思っていなかったフィリスの体は強張った。「もし、グランツ商会の方が神織りを見せてほしいと言ってきたら、やってほしいのよ」「それは……お姉さまではなく、私がやっているところがバレるのではないですか?」 今まで姉がしていたことになっていたのだ。 それを急に別の人間が人前でやってもいいのかな?「そこは、私がうまくやるわ。お前は、ただ何も言わずにやればいいだけよ」 真っ赤な口紅をしたマリエッタは、自信満々に足を組み、胸に手を当てた。 何をどううまくやるのかは、フィリスには分からなかったが、あえて聞かなかった。フィリスにとっては、今日どれだけ目立たないように過ごして、隙を見て逃げだすかしか興味がなかった。「いいか」 父が念を押すように、フィリスを指さした。「くれぐれも余計なことをするな。お前は、ここまで育ててやった私たちのために言われたことをやればいいんだ」「……はい」 ――言いたいことは、ある。 毎日、工房に閉じ込められて、働かされて、少しの食料だけ与えられるだけ。それは、育ててもらったと言えるのか。 フィリスは、窓の外を流れる久しぶりの王都の景色を眺めて、胸の中のもやもやを考えないように努めた。 馬車は、王都の街の中を進み、大きな運河の前にある立派な佇まいの建物の前でゆっくりと停車した。 一家で最後に馬車を降りたフィリスは、息を呑んだ。 赤茶の重厚な石造りの建物。いくつも並ぶ白い窓からは、きらびやかな光が漏